星空の美しい季節になりました。
冬の星座の代表格が
東の空で日に日に高くなると
夜の空気はいっそう冷たく、
湯上がりの身体も
引き締まるかのようです。
一日の終わりに
見上げる空と気配は、
季節を問わず
その移ろいを優しく感じさせてくれます。
さて、この時季の作業は樹の冬支度がメインです。樹の根元の土削り、藁(わら)巻き、堆肥の散布など。この一年をねぎらいながら樹のためにする作業は、人がようやく役に立てるような気がして、収穫期とはまた違った充足感を与えてくれます。近頃は畑での人影もまばらで、その静けさの分、やわらかい陽射しと澄んだ空気の中で鳥の声だけが際立ちます。だたそれだけで満ち足りた気持ちになれる、冬の畑とはそんな場所です。
土を通して食を想う
霜が何度も降り、空気だけでなく土も冷たくなってきました。履き慣れた長靴をそろそろ防寒タイプのものに変えなくちゃ...と思う時、いつも以上に強く土の存在を感じます。
突然ですが、皆さんの周りに「土」はどの程度存在していますか? 最近、土を踏んだことはありますか?
近年は都市部でなくても周囲はアスファルトばかりという街が少なくありません。土を見かけるのは街路樹の根元や公園の植え込み、住宅の軒先にあるプランターなど。そんな程度かもしれません。でも、人が生きるために欠かせない食べもののほとんどは土から生まれます。
作物が育った環境や過程を想像することはなかなか難しいことですが、人が手にする野菜やくだものは、土で育ち、その土を触り、踏みしめた農家によって収穫されます。しかし、その食べものに気持ちを寄せて下さる人はどのくらいいるのでしょう。食べものをお金で買うことに慣れ、農産物を「どこかの産地で、どこかの知らない"農家"という人たちが作るもの」という感覚の人も少なくないのではないでしょうか。作物の土台が字そのものである「土」であるように、人の暮らしの土台は「食」です。その食の根本である土というものから、どうして私たちはこんなにも離れてしまったのでしょうか。
自然界への畏敬の念
物事の本質を思う時、いつも頼りにしているものがあります。それは、畑への道すがらや土の上で見た景色、先の読めない天気、時間で変わる風、湿度、におい...といった、自然界の機微の「実感」から生まれる畏敬の念のようなもの。現代には食に関するさまざまなライフスタイルが存在していますが(例えば、オーガニック、マクロビオティック、ホールフード、ローフードなど)、私が大切に思うのはそのような思想的なものではなく、もっと肌で、身体で感じとったものから湧き出す感情のようなものです。それが、私の営みの土台になっているのかもしれません。
これからも、暮らしと向きあった農を
食や暮らしに対しての道徳が、このごろのTPP問題でも試されています。それぞれの地域で、それぞれの人付き合いの中に、それぞれ実感の伴う暮らしがあって然るべきだと思います。その上で、土台である"作物が生まれる場所"を身近に想い、農家は"台所であること"を意識し、互いの配慮で支え合うこと。それが今の私の願いです。
この一年、私の農事録は「畑に出る理由」を書くことでした。ひとりよがりでわかりにくい面もあったかと思いますが、これからもこの信州で誠実に農と向き合う人々を応援していただければ幸いです。これまでお読みくださった方、コメントを下さった方、ならびに編集部にこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
(終)
あわせて読みたい
● 「ぼくらが畑に出る理由」
● 須坂の4つの季節を巡る農事録バックナンバー