さて、近頃の作業は果樹の剪定です(正しくは『整枝・剪定』と言います)。
鼻先は凍りそうだし、ザクザクと雪を踏みつける足元は冷え冷えして楽な作業ではないのですが、作業に集中している間はそれほど気になりません。
えいっと一度外に出てしまえば、冬の澄んだ空気は本当に気持ちの良いものです。
畑では葉を落とし骨格があらわになった果樹が佇んでいます。
そんな冬の木を見上げるのが好きです。
骨格がわずかな逆光で黒いシルエットになる夕暮れ時は、特に好きです。
夏の木は有機的な活動が盛んでなにやら近寄りがたい印象を受けるのですが、休眠期にある冬の木は静かで、そっと寄り添いたくなるような雰囲気です。
植物は動物と違って移動ができない生き物です。
それだけに人は植物を全く別の生き物と思いがちですが、やはり同じ自然界の生き物。観察次第で木にも人間と同じ営みを感じとることができます。
例えば、骨格の要である太い枝を『主枝(しゅし)』と言いますが、この主枝の先端にある枝の強弱が、主枝の勢いをコントロールします。
先端にある枝が弱くなった場合、それ以下の枝の勢いや伸びる方向がまちまちになり、まるでリーダーを失って勝手気ままに行動するひとつのグループのようにも見えます。
こうなると農家の意図した樹形からどんどん遠ざかってしまいます。
また、主枝は長年使うと先端が弱ることがありますが、その時は【更新】のために主枝の途中から新しく先端候補を作ります。つまり、新しいリーダーを育成するのです。
主枝全体を会社とするならば「先端=経営者」です。その更新はまるで企業が若返りを図る時のようです。実際、この新陳代謝が木の寿命を延ばすことにつながる場合もあります。
というように、置き換えてみるとちょっと楽しくなるのですが、みなさんはどう感じられたでしょうか。
以上は農家が手を入れている木においての話であり、環境に左右されることも農家それぞれで考え方が異なることもあります。整枝・剪定の目的は、樹勢を維持し生産性を安定させること。それゆえ毎日が悩みながらの作業です。
でも、ほんの少し目線を変えるだけで人の営みに例えられるものがあって、ひとつでも気がつくことができた時、より農業が面白いと感じられ、また植物への親しみも一層深まります。
最近ようやく、枝を育てることが楽しいと思えるようになりました。
去年の剪定時に「いい枝に育つといいな」と思って残した枝が(思い通りには行かないにしても)良い具合に育っていると、木と対話ができたような気がして単純に嬉しくなります。
よい実をならせてくれる枝を育てるには、長い年月がかかります。強いからとすぐ切り捨てるのではなく、時にはじっと待って育てることも必要です。
人以外の営みから何かを感じとり、それを暮らしの中で楽しみ、また時々は戒めとする生き方を農家はもっと求めてもいいのではないかと思っています。
じっくりと木と向き合える冬は、私にとって、とてもいとおしい季節です。
それでは、今回はこのへんで。