すべての長野県を愛する人へ贈る歌がある!

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長野県を代表するものとして、「そば」「おやき」といった食べ物の他に「信濃の国」という県歌があります。この歌の存在は、これまでテレビでも何度か全国放送されているので、ご存知の方も多いかもしれません。Google.co.jp には約6万7千9百もの日本語のページがあるほどです。ウィキペディア日本語版には「日本で最も有名な県歌」と記されています。

長野県にこの歌あり
この「信濃の国」は、南北に長い長野県の県民216万8968人(2009年3月)、小学生以上の老若男女ほとんどすべてがこの歌を知っているのではないかというところが、県民にとっては当たり前でも、県外の人からみれば驚愕すべき長野県の特色なのではないでしょうか。会場に集まった全員で歌を歌おうと言っても、君が代をのぞけば流行歌でもそうそうみんなで歌える歌はないでしょう。しかし長野県民が集まった席でなら、それがどんな会であれ、大人も子供もみんなで「信濃の国」を大合唱することができるわけです。

この県民のハートに浸透している県歌「信濃の国」を、善光寺御開帳などによって善光寺界隈をはじめとして多くの方に県内を訪れてもらっている今、より信州を知っていただくことになればと、ここで紹介させていただきます。

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長野盆地を空撮したもの。ウィキペディアより。クリックで拡大。

歌詞には信州の地理、風土、名所、旧跡、偉人などが盛り込まれ、この歌詞を知れば以前よりも少し信州に愛着を持っていただけるでしょう。ただしこの歌が作られた明治32年と現在とでは大分様子が変化したところもありますけれど。

歌は6番まであり長い歌詞ですが、人々はこの歌を歌うとき、驚くべきことに、1番から6番までをほとんど飛ばすことなく歌いきります。また曲調は4番だけゆったりとしたテンポになりますが、あとは1番から堂々と胸をはって元気に歌うのが似合います。それではしばしお付き合いの程を。

信濃の国

    浅井洌(1849年〜1938年)作詞
    北村季晴(1872年〜1930年)作曲

1.信濃の国は十州に
  境(さかい)連ぬる国にして
  聳(そび)ゆる山はいや高く
  流るる川はいや遠し
  松本(まつもと)伊那(いな)佐久(さく)善光寺(ぜんこうじ)
  四つの平は肥沃(ひよく)の地
  海こそなけれ物さわに
  万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき

2.四方(よも)に聳ゆる山々は
  御嶽(おんたけ)乗鞍(のりくら)駒ケ岳(こまがたけ)
  浅間は殊に活火山
  いずれも国の鎮めなり
  流れ淀まずゆく水は
  北に犀川 千曲川
  南に木曽川 天竜川
  これまた国の固めなり

3.木曽の谷には真木(まき)茂り
  諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
  民のかせぎも豊かにて
  五穀(ごこく)の実らぬ里やある
  しかのみならず桑とりて
  蚕飼(こがい)の業(わざ)も打ちひらけ
  細きよすがも軽(かろ)からぬ
  国の命を繋ぐなり

4.尋(たず)ねまほしき園原(そのはら)や
  旅のやどりの寝覚(ねざ)めの床(とこ)
  木曽の桟(かけはし)かけし世も
  心してゆけ久米路橋(くめじばし)
  くる人多き筑摩(つかま)の湯
  月の名にたつ姨捨山(おばすてやま)
  しるき名所と風雅士(みやびお)が
  詩歌(しいか)に詠(よみ)てぞ伝えたる

5.旭(あさひ)将軍義仲(よしなか)も
  仁科(にしな)の五郎信盛(のぶもり)も
  春台(しゅんだい)太宰(だざい)先生も
  象山(ぞうざん)佐久間(さくま)先生も
  皆此(この)国の人にして
  文武の誉(ほまれ)たぐいなく
  山と聳えて世に仰ぎ
  川と流れて名は尽きず

6.吾妻(あづま)はやとし日本武(やまとたけ)
  嘆き給(たま)いし碓氷山(うすいやま)
  穿(うが)つ遂道(トンネル)二十六
  夢にもこゆる汽車の道
  みち一筋に学びなば
  昔の人にや劣るべき
  古来(こらい)山河(さんが)の秀でたる
  国は偉人(いじん)のある習い


【歌の解説】

1.信濃の国は10の国と接していて(現在は8県ですが、昔の国名では10)、そびえる山はとても高く、流れる川は遠くまで流れていき、松本、伊那、佐久、善光寺の4つの盆地をつくり、これらはよく肥えた土地であり、海は無いけれど産物は多く、足りないものはありません。

2.県内にそびえる山の御嶽山、乗鞍岳、駒ケ岳、とくに浅間山は活火山で、これらは国が安定するようにそびえています。ゆったりと流れている川は、北に犀川と千曲川、南に木曽川と天竜川があり、これらも県の発展の基礎となっています。

3.木曽谷には桧(ひのき)が生い茂り、諏訪湖では魚が多く捕れます。人々の働きも良く産業も発展して、県内のどこでも穀物など農産物が豊かに収穫されます。そればかりでなく桑の葉を摘み取って育てる養蚕の技術も広がり、一軒一軒の養蚕農家は小規模ながらも日本の支えとなっているのです。

4.訪ねてみたい所は、園原(県南部・下伊那郡阿智村)、また旅の宿として有名な目覚めの床(県南西部・木曽郡上松町)にも。木曽のかけはし(木曽路のかつての難所で、丸太を藤ツルで組み上げて絶壁に取り付けて作られた桟橋)の時代に思いを寄せて久米路橋(県北部・長野市信更地区と上水内郡信州新町を結ぶ犀川にかかる橋)を注意しながら渡りたいもの。筑摩の湯(現在の中信・松本市美ヶ原温泉、または浅間温泉をさすと言われる)の温泉に来る人は多く、姨捨山(県北部・千曲市八幡)は月見で有名です。いずれも名所としてよく知られ、風流な歌人や詩人が昔から漢詩や和歌に詠い、現在まで伝えられています。

5.旭将軍と呼ばれた木曽義仲(きそよしなか)も、仁科五郎信盛(にしなごろうのぶもり、正しくは盛信)も、太宰春台(だざいしゅんだい)先生も、佐久間象山(さくまぞうざん)先生も、県にゆかりの偉人は多く、学問、武芸に優れていました。その偉人の名誉は山のように高く、世の中の人が見上げ、川の流れのようにその名声は忘れられないでしょう。

6.日本武尊(やまとたけるのみこと)は長野県に入るとき、碓氷山(うすいやま)で亡くなった妻を思い出して嘆いたといわれます。その碓氷山(軽井沢・横川間)には、信越線の開通のために26ものトンネルが掘られて、蒸気機関車で山を越えることが出来るとは夢のようです。汽車が線路をひた走るようにその道一筋に学べば、昔の人より劣るはずはないのです。なぜなら昔から自然豊かな長野県では素晴らしい人物が育っているからです。

それは信州の賛歌にほかならない
善光寺平が望める善光寺裏山の展望道路沿いにある“歌が丘”には、この「信濃の国」の歌碑があります。またこの歌詞は、信州では家庭のふすまや掛け軸として飾られているのを見ることができます。

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この歌が県歌としての地位を確立したのは、歌が作られただいぶ後の昭和43年と比較的最近のことですが、実はこの歌、国土を認識し、県民の郷土愛と愛国心を結びつける目的で、新しい小学校唱歌をつくろうとして生まれたものでした。

信濃教育会(教育の携わるものがもれなく集まり組織された県独自の教育団体)の委嘱により、当時、長野師範学校の漢文の教師であった浅井洌(あさいきよし)が作詞し、同学校の依田弁之助が作曲。しかしその曲想は古めかしかったため歌われなかったのです。そして翌明治33年、この長野師範学校に依田の後任としてやってきた音楽教師の北村季晴(きたむらすえはる)によって、新たに作曲がなされました。そして完成された歌をこの師範学校記念運動会に女性部生徒の遊戯として披露したところ、快活なリズムで歌いやすく大絶賛となり、師範の全生徒に歌われるようになったといいます。さらにこの歌は、師範学校の生徒が卒業し、行く先々の赴任先で子ども達に教えたことで、広く県民に歌われることとなりました。

すべての長野県を愛する人をつなぐ
長野県で運命的に誕生した「私」も、うん十年前、小学校にあがったばかりの頃すぐに、この歌を朝礼などで幾度となく歌いました。そうしてまた学校行事などではこの「信濃の歌」をよく歌いました。当時は歌詞の意味も理解出来ないまま口ずさんでいましたが、小さな頃から繰り返し歌ってきたために、今なお突然でもなんとなく歌詞が甦り、口をついて歌うことができてしまいます。

この歌は、南北に長く、文化の異なった人々が暮らす長野県をひとつにまとめるうえでも非常に重要な歌でした。長野県は北から南までその長さはおよそ212キロにも及びますが、その内部は峠が非常に多く、その峠を境として文化や経済が寸断されていたために、江戸時代には11もの藩により構成されていたといいます。北信地方の藩は越後に、上田などの東信諸藩は江戸、松本は京都、飯田は京都や名古屋の影響を強く受けるといった、歴史も風土も文化もまったく異なる複数の地域が寄せ集められたもので、今でも「信州合衆国」などと言う人がある程です。そんな長野県は明治初期、東・北信の地域を統合した「長野県」と、中・南信地域を統合した「筑摩県」の2つの県が存在していたといいますが、政府がさらに統合を進めていた時期、筑摩県庁の火災をきっかけとして、この筑摩県が長野県に統合されたのでした。当然怒ったのが、筑摩県に属する中・南信地区の松本や伊那の人々。元のように県を2つに分けろという分県論や、県庁を松本へ移せという移庁論は事ある毎に叫ばれたそうです。

しかしそういった最中、「信濃の国」を歌う声がどこからか聞こえてくると、県内のことが広く網羅されている歌詞に導かれて次第に会場は大合唱、人々は一致団結してやっていこうという気が沸き起こり論争は収まった、という話は後々までも聞かれるなど、県下を統一するのに欠くことが出来ない歌として存在してきました。

明治、大正、昭和、平成と時代をまたいで今なお歌い継がれる県歌「信濃の国」。山々に囲まれた土地でありながら広い世界を目指して活躍した偉人たちと、また昔から県民が大切に思い育んできた豊かな自然溢れる信州を誇りに思い、改めて自分が存在するこの信州を見直したのです。

あわせて見てみたい:

長野県の県歌「信濃(しなの)の国」についてやさしく説明 長野県

Sinano no kuni(信濃の国) ハッピー&パピー・バージョン おそらく一番新しい編曲とダンシング



参考文献:「信州学大全」著・市川健夫(信濃毎日新聞社)
     「不思議の国の信州人」著・丸山一昭、岩中祥史(KKベストセラーズ)

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