今から400年以上前の1591年、徳川家康から新宿御苑とその周辺に20万坪以上もの領地を受領した内藤家(のちの高遠藩主)は、明治時代までこの地を下屋敷としました。当時、内藤藩では下屋敷の周辺では、とうがらしやカボチャが栽培され、 秋になると畑一面に真っ赤なじゅうたんを敷き詰めたような光景が見られたそうです。
街を元気に! 高遠版内藤とうがらし
新宿では、この内藤とうがらしに注目して、現在地域おこしが進められていますが、内藤家の御膝元である「高遠藩」でも、当時、とうがらしやカボチャが栽培されていた可能性が高いようです。そのため、「内藤とうがらし」によって街の元気づくりをしようと、2012年に伊那市観光協会や伊那商工会、地元公民館や農産加工グループなどの様々な団体によって構成された住民グループ「高遠版内藤とうがらしプロジェクト」が結成されました。新宿から種をもらい「内藤とうがらし」の栽培に取り組む中で、とうがらし栽培は猿や鹿などの獣害対策に有効であり、作業労働が比較的軽いことから、高齢の農業者にも栽培できる作物として期待できることが分かりました。また、種や苗の配布を積極的に行っており、一株だけ栽培する農家から出荷までこなす農家まで栽培量に違いはありますが、現在では100人以上の方が栽培しています。
料理教室と食べるシンポジウムで盛り上がる
2013年11月17日に伊那市高遠町で、信州高遠藩「とうがらしを食べるシンポジウム」が開催されました。「内藤とうがらし」によって地域を活性化させようと、「高遠版内藤とうがらしプロジェクト」が、「内藤とうがらし」をこれからどのように活用させるか考えるシンポジウムです。
午前中は、料理研究家の横山タカ子先生と宮崎理恵先生を講師に迎え、それぞれ和食とイタリアンの料理教室を行いました。
横山タカ子先生の料理教室
横山先生は、「内藤とうがらしの豆腐炒め」と「じゃがいもの薄焼き」を、宮崎先生は「色々茸のぺペロンチーノ」と「豆&肉&チーズのトウガラシ煮込み(チリコンカン)」を作りました。
ー横山タカ子先生の和食ー
「内藤とうがらしの豆腐炒め」
「じゃがいもの薄焼き」
ー宮崎理恵先生のイタリアンー
「色々茸のぺペロンチーノ」
「豆&肉&チーズのトウガラシ煮込み(チリコンカン)」
横山先生の料理教室に参加した、地元の南箕輪村からの参加者は、「すごく良かった。家でとうがらしを作っているので、試してみたい。これから食べるのが楽しみ!」と、とびっきりの笑顔で話してくださいました。
みなさん手際良く調理・片付けもされ、1時間ほどで料理が出来上がりました。完成した料理をみなさんで囲み、試食をしました。
とうがらしの未来を語ろう
午後は、食べるシンポジウムです。とうがらしの生産者や、農産物加工グループなどおよそ70人が集まり、(株)八幡屋磯五郎の室賀社長と吉岡食品工業(株)の吉岡社長によるとうがらしビジネスの講演の後、とうがらしを使ったおやき、なす焼きもち、しょうゆ、ゆずこしょう、ローメン(羊の肉と中華麺をキャベツなどともに独特のスープで煮込んだ伊那で生まれた料理)などを試食しながら、トークセッションをしました。
上から、内藤とうがらしを使ったローメン、しょうゆ、おやき
「江戸は内藤新宿の八つ房が焼き唐辛子」
そもそも「内藤とうがらし」とは?
コーディネーターとしてプロジェクトに参加している信州大学大学院農学研究科の松島准教授にお聞きしました。
内藤家のお屋敷周辺(現在の新宿御苑とその周辺)でつくられていたという作物の一つで、品種は「八房(やつふさ)」であると考えられます。 とうがらしは、江戸の食に欠かせない調味料として、七味唐辛子などで広く親しまれ、江戸から続く「とうがらし売り口上」でも「江戸は内藤新宿の八つ房が焼き唐辛子」と謳われ全国に知られました。当時から、かなりの大都会だったと考えられる江戸の町ですが、その近郊で、このようなとうがらしの一大産地があったということは、当時の江戸庶民が、とうがらしを好んで食べていたと考えられます。
今回は新宿から種をもらいましたが、実は高遠でも江戸時代からつづく種「てんとうまぶり」という品種のとうがらしが発見されているんですよ。こちらも注目したいですね。
(参考:高遠版内藤とうがらしプロジェクト制作「高遠版 内藤とうがらしプロジェクト」)