「これは、いったい、なに?」
そんな声が聞こえるようです。丸々とした体に、いくつものごつごつしたトゲのような突起。きみどり色をした太り気味の姿形は、まるで怪獣の子どもかなにかのよう。そう思われるかもしれませんが、じつはこれ、長野県が保存と継承を図(はか)るために支援する「信州の伝統野菜」として平成20年に新たに認定し、今年5月に認定書の伝達式もおこなわれた希少な食材なんです。
県中部、松本市安曇にある乗鞍(のりくら)高原で、昔から栽培されているこの伝統野菜の名前は、昔からの土地の名前をとって「番所きゅうり(ばんどころきゅうり)」といいます。地元の人は「番所うり」とも言うようです。他のところに出荷はしていないので、食べられるのは乗鞍高原だけ。訪れる季節が正しければきっと食べさせていただけます。いや食べないと損です。かわいい怪獣みたいな容貌ですが、生産者の方から愛情をいっぱい受けて可愛がられている、珍しくて貴重な野菜です。
伝統野菜だからのおいしさがあります
「これが、きゅうりか〜!」と思うと、とうぜん「普通のきゅうりとはどこが違うの?」という疑問が浮かんでくるでしょう。まず、見た目は、おわかりのようにまったく違います。長くて細いのが普通のきゅうりだとすれば、こちらは太くて短い。長さは20センチ、直径は5センチが標準です。巻頭の写真のものは、今年の日照不足のためにやや黄色みが強くなった番所きゅうり。もともと日にちが経つとこのように黄色みを帯びてきますが、地元の方はむしろ黄色のほうがおいしいといいます。そして怪獣のように見える黒いトゲ。これも番所きゅうりの特徴です。背が低くて、丸々とした体に、黒いトゲトゲがついた姿は、すべてが番所きゅうりのチャームポイントなのです。そういわれるとかわいく見えてきませんか?
さて、その味は、普通のきゅうりよりもみずみずしく、種もプチプチして、甘みすらあり、丸ごと食べることができるのです。冷やして丸ごと味噌をつけて食べると、これがあっさりとしていてみずみずしくて、おいしいのです! また、皮をまだらにひき、薄塩を振っての一夜漬けは、想像を超えてさらにおいしく、後味もなかなか!! 土地のお年寄りたちはこの番所きゅうりの一夜漬けを「梨よりおいしい」と喜んで食べるそうです。
ある日あたりまえではないことに気がつかされた
今回、番所きゅうりについてお話をうかがったのは、筒木和子(つつきかずこ)さん。本業は乗鞍高原の旅館「唐松荘」の女将さんで、この番所きゅうりを守る「乗鞍生産者組合」の事務局としても活躍されています。筒木さんは言います。
『このきゅうりが"珍しい"と言われるまでは、これが当たり前にあるものと思っていたんです。虫がついたり、食べ切れなかったりすると、いつも畑に捨てて肥料にしてしまっていたの』
今では沢山収穫ができたときは、人に種を分けたり、あげたりしています。伝統野菜としての価値が認められてからは、番所きゅうりを大切な食の文化財としてしっかり見てあげるようにもなったそうです。
乗鞍でしか食べられないきゅうり
番所きゅうりは乗鞍高原の地でしか栽培されておらず、まだ販売ルートも確立できていません。今の時期は少量を近くの直売所などにおいているのみ。仮に販売ルートができたとしても、生産者が少ないために出荷量が追いつかない状況です。
この番所きゅうりを守っている乗鞍生産者組合の皆さんは総勢26名。多くの方は、旅館業を主とする傍らで農業をしています。作った番所きゅうりを旅館に来たお客さんに「乗鞍でしか食べられないきゅうり」といってお出しするととても珍しがられて喜ばれるとか。
番所きゅうりの未来を見つめて
乗鞍生産者組合の組合長は上松市男(あげまついちお)さんです。番所きゅうりの畑に行くと、広くきれいに手入れされた畑の中から、笑顔で出てきてくださいました。われわれの取材に対し、「こうやって取り上げてもらえるのはありがたいね」ときゅうりの前でにっこり。
番所きゅうりの栽培は、生産者が自分の畑で種を取り、毎年5月下旬頃に畑に蒔きますと、およそ2ヶ月で収穫できます。いつもなら7月末から8月に収穫を迎えますが、今年は雨の影響により収穫量に影響はないものの、収穫時期に遅れがでました。
伝統野菜の伝統を守るために
実を収穫しないで放っておくと、次第に曲がって変色していきます。その果実から種を取り、水につけて、水に沈んだものを乾燥させ、次年度の種(ファーザー・シード)として使用します。ところが最近では、交配を頼む蜂たちが原因で、番所きゅうりと他の品種とが混ざりあってしまうという事態が起こっています。これでは『伝統野菜の純粋な品種が守れない!』ので、生産者のみなさんは純粋な番所きゅうりを残すための取り組みをはじめることにしています。伝統野菜として認定されたのを契機に、今後は生産者が自分の畑から収穫した番所きゅうりを持ち寄って、みなで品評会を行う予定。その中から純粋な番所きゅうりを見定め、その種を取って番所きゅうりとして後世に残していくことが課題だ、と筒木さんは番所きゅうりの未来に思いを馳せます。いつかこの乗鞍の山が育てる特別なきゅうりがみなさんの食卓にのることもあるかもしれません。筒木さんは言いました。
『信州大学農学部の大井美知男教授に"珍しいきゅうりだから守る必要がある"と気づかされ、背中を押されたんです。そうして次第に"このきゅうりを守らなきゃ"という気持ちになりました。今の目標は、純粋な番所きゅうりの品種を守ることです』
今後は生産体制を強化し、夏場が本番の番所きゅうりを、冬でもおいしく食べるために、加工品の製造にも挑戦したいと彼女は考えています。『番所きゅうりを守るということは、この地で続いてきた農業を守るということなのです』そしてこう力強くしめくくりました。『わたしはこの乗鞍が大好き。この番所きゅうりが乗鞍の活性化につながればいいです』
番所きゅうりのお問い合わせ:
信州乗鞍高原 旅館民宿『唐松荘』
住所:〒390−1520 長野県松本市安曇乗鞍高原4085ー65
電話:0263−93−2258
FAX:0263−93−2726
唐松荘ホームページ
番所きゅうりの現地直売所:
乗鞍うまいもの工房
住所:〒390−1520 長野県松本市安曇 乗鞍高原
電話:090−8007−6427
乗鞍うまいもの工房ウェブサイト
関連サイト:
信州の伝統野菜ホームページ(長野県公式ホームページ)