信州に日本海から塩や海産物を運んだ古道「塩の道」で、往時をしのぶ催しが毎年行われています。今年37回目を迎えた「塩の道まつり」のメインイベントは、この古道を3日にわたり実際に歩くというものです。
五月晴れの下、この古道を歩きながら江戸時代にプチタイムスリップしてまいりました。見上げれば、まだ白銀の北アルプスが壁のように迫っています。
日本海から120km、歩いて塩を運ぶーー
千国街道「塩の道」の歴史に思いをはせる
そもそも昔は「地産池消」などという言葉はなく、その土地で採れた物で食生活をまかなうのはごく当たり前のことでした。しかし、信州においては「塩」だけは海のある土地から運んでくるよりありません。もちろん、海で捕れる魚なども貴重だったでしょうが、人が生きていくうえで絶対に欠かせない塩を、大量に、そして安定的に確保することの重要性から、海から山へと塩を運ぶ道は全国各地に存在し、それぞれの土地で「塩の道」と呼ばれ、人々の暮らしを支えてきました。
ここで言う塩の道は千国(ちくに)街道を指し、日本海に面した糸魚川から松本に至る約120kmのルートです。今回は最も険しくかつ人気のある初日の小谷(おたり)村コースに参加しました。
高低差300mの里山を
江戸時代の旅人が歩く、歩く
スタート地点に集まった参加者はなんと4千人超! 小谷村の人口が約3千人ですから、一時的に倍以上の人であふれかえったことになります。そして参加した皆さんの格好がサイコー! 多くの方が江戸時代の旅姿や塩や魚を背負って運ぶボッカ(荷運び人)姿などになりきっています。衣装の貸し出しもありますが、自作してくる常連さんも少なくないようでした。
雪が深く春が遅いこの地域では花が一斉に咲き始め、歩き疲れた私たちの心を和ませてくれますが、一方で街道沿いには雪が残り、不思議な季節感の中を進みます。
先ず感じるのは、思いのほかアップダウンの激しい道のりです。重い荷を背負って往来した先人の苦労がしのばれます。当時ボッカは「かます」というワラで編んだ大きな袋に塩や魚を詰めて背負い、松本を目指しました。
街道には牛馬を連れた牛方が休む「牛方宿」や、塩を一時的に納めた「塩蔵」、そして通行人のチェックと通行料の取り立てをしていた「番所」などが残されています。この番所跡で私たちは通行手形にスタンプを押してもらい先へ進みます。
牛馬に物資を積んだ運び人が牛馬とともに休憩した「牛方宿」
偉い代官様もおもてなし?「千国番所跡」
里山のふるまいに、険しい道も何のその♪
このイベントがたくさんの人に支持されるその訳は、当地の皆さんのおもてなしにあります。「何といっても、村の皆さんの温かいもてなしが最高なんですよね。だからまた来ちゃうんです」と話してくれたのは神奈川県から来たという、自身は13回目、息子さんは3回目という筋金入りの塩の道ウォーカー親子でした。
ここ小谷は山菜の宝庫、そして漬物のメッカ。フキノトウ、コゴミ、ウド、ヤマブキ、モミジガサ、イラクサ、ナノハナ・・・様々な調理方法で提供される山の幸をほおばれば、険しい山道も何のその。ルートのところどころで太鼓や音楽の励ましもあり、足取りも軽くなります。
「小谷太鼓」「小谷っ子太鼓」の皆さんによる演奏も
千国街道は参勤交代のルートになるような幹線道路ではなく、いわば産業道路。何百年にもわたって重い荷を背負った人々がこの街道を往来していたわけです。その間、村人はずっと通る人を励ましたり、もてなしたりしてきたに違いありません。その伝統が今も生きている、と思わずにはいられませんでした。
その土地の「おいしさ」、その背景に感謝!
「流通」という言葉を、現代の私たちはいとも簡単に使っていますが、運ぶこと自体がいかに大変なことであるかを身をもって感じる体験でした。
長野県はおいしい農畜産物が豊富にとれることが私たちの自慢です。ただ、そのおいしさも自分たちだけで作ったものでないことも知りました。魚や海藻はいうに及ばず、たとえば信州自慢の漬物にしても、他国(他県)から運ばれた塩があってこそ完成されます。農産物を栽培する人、魚を捕る人、塩や味噌を作る人、それらを運ぶ人、運ぶための道を造ったり整備する人、様々な人たちの働きが組み合わさって「おいしさ」が生まれているんだな、と改めて感じる道中でした。(感謝)
今回ご紹介した塩の道まつりだけではなく、千国街道を歩くイベントは他の季節でも断続的に開催されています。思い立った時に自分なりのペースで歩いてみるのもいいかもしれません。(つかはら)
翌5月4日には白馬村、5日には大町市で塩の道まつりが行われた
小谷村大網地区の名物、手作り栃餅
小谷村の「犬つぐら」はいいよ♪