長野県松本市。ここでの年始早々の小正月の地域行事といえば「三九郎」です。他の地域では「どんど焼き」などとも言われる三九郎は、無病息災を願い、正月に飾りつけた注連(しめ)縄や松飾り、前年まで見守ってくれたダルマなどを各家庭を回って集め、独特の円錐形に積み上げて火を放って燃やし、燃えさかるその火で白やピンク、薄緑色などの色を付けた上新粉で繭玉(まゆだま)に形作った小さな団子を焼いて食べる、地元の子どもたちが心待ちにする伝統行事でもあります。子どもたちの間では繭玉を食べると「歯が痛くならない」「腹が痛くならない」などと言われていました。
子供たちのための伝統行事でしたが
しかしこの三九郎、もともと小学生が行う行事なのですが、最近の少子化で子どもたちの人数が減っていることや、火を燃やすという危険もともなうため、最近ではかつて子どもだった今の大人の関わる部分も増えています。
去年の12月、松本市芳川野溝(よしかわのみぞ)で「三九郎」を作るため、心棒の切り出しに参加しました。
心棒とは、三九郎の柱のことです。近くの川原で、7〜8メートルほどのニセアカシヤのできるだけまっすぐな部分を6本調達します。子どもたちは木の切り出しの際に木が倒れてきたり、枝が落ちてきてケガをしないように、ヘルメットを被ります。小学生がのこぎりで切るのですが、ちっとも切れません。良く見るとのこぎりを同じ場所で押したり引いたりしているためでした。
「前に押し付けながら押したり引いたりして切るんだよ」とアドバイスしましたが、どうにももどかしく、大人としてついつい手を出してしまいました。
今ではこの地区でも三九郎は2つだけ
以前は、この集落内でも10数基ほども三九郎が建っていました。しかしながら今は集落合同のわずか2基だけ。
心棒を3本、最も太い根元のところをそろえて並べ、てっぺんより1メートルくらい下の適当な部分を縄で結びます。これを立てるのですが、あまり強く縛ってしまうと立てて足を広げるのに苦労します。また、縄をぐるぐる巻きにしてしまうと縄がなかなか解けず、倒すときに時間がかかって大変です。
心棒同士に横棒を縄で縛りつけます。これを円錐形の3面とも下から上へ3〜4段ぐらい行い、この横棒に藁(わら)や松などを掛けたりダルマを置いたりして仕上げます。三九郎によじ登っての危険含みの作業に、活発な子どもたちは大喜びでした。こうしてやっと完成した三九郎を眺め、「結構りっぱにできた」と子どもたちは満足そうにしています。
今は行われなくなったあれやこれや
従来、三九郎は1月14日の夜に燃やしていましたが、現在は成人の日の前後の日の夕方に点火するようで、今年は10日の夕方4時に点火。昔なら、点火の1時間くらい前に、
「さーんくーろお さんくーろー じっさとばばさとまごつれてー さーんくーろにきておくれー」
と独特の口調で歌いながら集落内を練り歩き、点火の合図を知らせてまわります。そうすることで、周辺の住民が続々と集まってきたものですが、今はそのようなことは行いません。それでも毎年この地区の三九郎には、地区内のおおよその住民が参加しました。今年は100人ほどの参加です。
夕方4時、いよいよ点火の時間。
点火すると炎が勢い良く音をたてて燃えあがりました。「おお〜!」「すげ〜!」などどいう歓声が子どもたちからあがります。しかし、あまりそのままにしておくと心棒が燃え尽きてしまい、次の年に使えなくなってしまいますので、点火から15分から20分ほどたったところで、頃合いをみて心棒を倒します。あらかじめ針金を長く伸ばしたものの先端を心棒にくくりつけておきます。そしてその長い針金を引いて、心棒を倒すのです。見ていても結構危険な場面です。
こうして倒した心棒を側によけてから、燃え残る"おき"(灰のこと)で団子を焼きます。日も暮れかかって空気や風は冷たいのですが、火は熱くてなかなか近寄れません。それでも我慢して顔を真っ赤にしながら一生懸命焼きます。
それでも焼いた団子はおいしい
団子を芯まで均一に焼くのは難しく、まだ硬い部分が残っていたり、表面だけ焼けすぎて炭になった部分の苦味もまじる団子の味はなんともいえない味です。子どもたちも大人たちも「おいしい」と言いながら団子をほおばりました。
以前は、翌日の後片付けのときに、完全に火の気がなくなり真っ黒になった燃え残りの松の枝を持ち帰り、自宅の屋根に投げ上げたものです。そうすることで火災予防になると言われていましたが、やはり今はそのようなことは行いません。
昭和30年代の三九郎の思い出
さて、昭和30年代半ばごろの小学生の時分から楽しみにしていたことのひとつに、三九郎を燃やした後、6年生の一人が担当する「親方」の家にみんなが集まり行う「茶話会」なるものがありました。
三九郎を燃やしたすすで汚れた顔や手などをお風呂で洗ってきれいにし、さっそうと出掛けます。まず、お茶ならぬジュースをよばれます。メインはきまっていて常にカレーライスです。
みんなで食べる大なべで作ったカレーは、家庭で食べるカレーに比べ一段とおいしく感じました。食事の後は、カルタや花札、トランプなど(当然ファミコンはありませんでした)ゲームをして楽しみました。そして最後は、子ども心にも恐怖を覚えた肝試しです。近くのお寺へ「行くぞ」という親方の号令のもとみんなで真っ暗な田んぼを突切って歩きはじめるのですが、家を出て遠くにお寺の明かりが見えだした頃、誰かが「赤い火が見えた」などと叫ぶと、みんな一目散に家のほうに走り出します。
今思うと滑稽な肝試しでしたが、周りに明るさの少なかった時代でもあり怖くて楽しかった思い出です。
時代と共に変わっても三九郎は続いてほしい
ここまでの一連の流れが野溝地区の「三九郎」ですが、現在は歌を歌いながらの点火の合図はしない、茶話会は行わないなど、三九郎で行う内容は時代の変遷とともに変わってきています。また、以前は田んぼや畑だったところに住宅などが建てられ、火を燃やすという三九郎を行う環境も厳しくなりつつあります。しかしながら、子ども時代の思い出として心に残るよう、いつまでも続いてほしい行事ではあります。