信州を代表する農産物、きのこ。なかでもエノキタケは生産量日本一、全国シェアのおよそ60%を長野県産が占めています。しかし、今のように安定した生産が可能になるには、先人たちのさまざまな努力がありました。エノキに隠された歴史とエピソードを紹介しましょう。
昭和3年、ガラスビンで菌を培養してエノキタケを栽培するという記事が、月刊誌の『主婦の友』(主婦の友社刊)に掲載されました。書いたのは、当時京都伏見在住の森本彦三郎氏。日本で初めてキノコの人工栽培に成功して、のちに「キノコ栽培の父」とされた人物です。その森本氏の書いた記事にヒラメキを得た当時の長野県立屋代中学校の生物学教師長谷川五作氏は、やがてビンによるエノキタケの完全栽培方法を確立しました。そして授業の教材として利用するとともに、地域産業の振興を願って一般の農家にも栽培をすすめたのです。
それに興味を持った松代町の一部の人たちは、長谷川氏に教えを乞い、その技術を導入し、それぞれに仲間を作ってエノキタケの栽培をはじめました。当時はエノキタケの栽培技術は門外不出とされ、徹底した秘密主義がとられたといいます。そのころエノキタケの存在を知っているのは限られた人たちだけで、ほとんどの人はまだその存在すら知りませんでした。
栽培者たちの秘密結社
昭和17年ごろから太平洋戦争の戦時統制経済となり、エノキタケの生産は一時中止されます。県内でエノキタケの生産が再びはじまるのは敗戦から4年ほど経ってからのことでした。当時、松代にはふたつのエノキタケ栽培グループがあり、一方のリーダー格として活躍していた中村進さんは、8人で仲間を作り、自分の栽培室で実験を重ねて、やがて栽培に成功しました。
エノキタケは、主に北陸方面や東京の築地に出荷され、高級料亭の鍋料理の食材として高価で取引されていたといいます。栽培者たちは値崩れを恐れて秘密結社のような組合を作り、栽培方法は絶対もらさないという誓約書まで入れて、種菌(たねきん)を分けてもらい、共同出荷するという状況が続いていました。
そして昭和28年、県の園芸特産課は、農家の副業として、エノキタケ栽培の指導に積極的に乗り出します。その最先端で普及に努めたのが安川仁二郎さんでした。後に「エノキの安川」と呼ばれたほど、信州のエノキタケの栽培と普及に深く関わった人物です。農家の冬の副業としていったい何がふさわしいのか? この問題を考え抜いた末に、安川さんがたどり着いたのが、当時松代町で冬期間の副業として、すでに成果をあげていたエノキタケでした。しかし、その技術は門外不出。大きな壁が立ちふさがっています。安川さんは意を決して松代町の中村進さんを訪ねました。
中村進さんは、当時の栽培グループの中でも比較的革新的な考え方の人でした。安川さんの熱意に押され、中村さんは協力を約束します。これに意を強くした安川さんは、普及のための説明会や講習会を各地で行い、栽培農家を募りました。冬期間の出稼ぎ防止対策として、豪雪地帯の飯山、下高井方面への普及をはじめます。また、昭和31年には、それまで松代茸、ナメタケ、ナメコ茸などと呼ばれていた名前も、エノキタケに統一されました。
そのころ、飯山市の太田地区で8件の農家がエノキタケの栽培をはじめました。殺菌と種菌接種は共同施設で、栽培管理は個々で行うというスタイルでした。最初の収穫は昭和32年の正月からで、ビニール袋に入れた200グラムのエノキタケを背負い、汽車に乗って、長野の市場へ出荷したといいます。
こうして、農家の冬の副業として奨励されたエノキタケの栽培は、飯山市に次いで翌年には中野市でも栽培がはじまり、時が移り平成となった今では完全に農業収入の柱になっています。
ふだん何気なく食べているきのこたちですが、長野県がきのこ王国となるまでには、信州の大地を舞台にした夢と汗と涙のドラマがありました。
ゲンキの素、キレイの素
JA全農長野では、昨年、消費者の皆さんにきのこ王国のことを少しでも知っていただき、信州の大地の恵みであるきのこたちをさらにさらにたくさん食べてもらおうと、11月11日を「長野県きのこの日」と制定しました。わざわざ11月11日を選んで「きのこの日」としたのは、数字の「1」をエノキタケに見立てて、それらがピンと並んだ姿から決めたとのこと。また、きのこがガン予防に効果があるという研究が発表されていることから、健康に「いい」、美容に「いい」として、「いい、いい」の語呂合わせも兼ねています。
この次に長野県産のエノキタケを食べるときには、どうかこの話を思い出してください。小さなエノキタケにも大きなドラマがあるのですから。